私は目一杯やる派です。突然何のこっちゃと思われるでしょうが、ある時からそうしている。もしやるかやらないか迷う時は、なるべくやる事にしているのです。なぜならその時それを出来るチャンスは、2度と来ないからです。
例えば土曜に皆が朝早くから起きて行く遠足チックなお誘いがあったとしましょう。そりゃやらなきゃいけない事があったら行きませんよ。でも例えば「それほど親しい人ばかりでもない」とか「出張から帰ってきて疲れが溜まっているはず」とか、物理的には行けるけど”大事をとって”みたいなぼんやりとした理由で行かないとか、しない。
でもこの前どうしても行けなくなりました。体調を思いっきり崩したからです。吐き気と下痢が止まらず、一口でも飲み食いすると5分おきにトイレに行く始末。流石の私も外出する気にはなれませんでした。年1回しかない、花火を見に行く約束を反故にしたのです。テクニカリー”行かない決断”じゃない、”行けない”だけなんですけどね。
でもこの体験で、私はぼんやりとした理由で”やる”チャンスを反故する人の気持ちが体感出来ました。やらないって楽ね。そして逃した体験って絶対に味わえないので、どれくらいもったいない事をしたのか想像出来ない。つまり、無痛なんです。
「なるほど。だから人は”やれるけどしない”という、さしももったいない事をやりがちなんだな」
生物は基本飢える寸前をデフォルト状態として設計されています。現代人が享受する、飽食な環境なんて想定していません。意識していないとなるべく飢えない為の最適解に引っ張られます。「おなかいっぱいの時はなるべく動かない」 脂肪を蓄え、来る飢えに耐えられるようにするのです。
そして今人間はほとんどの時間、原始時代より明らかに”お腹いっぱい”です。「やれるけどしない」「家でゴロゴロしていよう」 自然にしているとそんな決断に至るのです。何を逃したのか分からないので後悔もしないし、ますますこの傾向は強化される、、、
家でベッドとトイレと冷蔵庫(のポカリスウェットを飲む)の往復を繰り返しながら思いました。こりゃ相当意識しないと、そして行動を選択する”癖”をつけておかないと、出不精になるな。特に最低限の行動でそこそこ生活が持続可能なら。仕事があって、そこそこ収入があってなんてなると、、、まぁそれ以外は億劫。しなくなるだろう、と。
「うーーん、なんか、今回はいいや。次の機会では考える」
私は図らずもあらゆる事で仕掛ける側になってしまうので、そんなリアクションをよく聞きます。サルサもそうだけど仕事とかでもね。プロジェクト漕いだりすると。でも心の中で思う。「次の機会、あるかなぁ、、、」 そして今回の体調不良でさらに思う。「あなたがどんな時間をMissingしたか、多分わからずじまいだろうね、、、」
Ps
何のために生きているんだろう。歴史上の頭のいい飽食ヒマ人(笑)は、結構頻繁にそんな事を考えている模様です。でも答えは千差万別。なので私は思う。多分何でもないんだろうな。意味なんてない。あるなら自分でくっつけるんだろうと。
そして私はそんな先輩方と違って頭が悪いので、深淵な事は思いつかない。純粋に得か損かだけで考える事にしています。同じ息をする回数分、何だったら心が躍る楽しい時間帯が、多ければ多い程いいでしょう、と。
となると現代人の最適解は本能からくる出不精欲求に抗い、楽しいかなと思える事はなるべくやる。行動する方を選んだ方がよかろうと。めっちゃ意識しないと、なかなかそうはならないけどね。
もちろんその行動にはリスクもある。疲れるかも!? 気性の合わない人とも顔を合わせる?! イヤな思いをするかも!? でもリターンは多分やる前には想像つかない。よっぽどでないなら「やる」が、おそらく人生”得”だろう。
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