振舞面:愛想がいい 1

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さて私が推進している『どこに踊りに行っても、初心者でもベテランでも、楽しくなれるサルサ界の為に』 今回は愛想をよくしようよ、という話をしようと思います。

■愛想=他人から好感を持たれる言動

そしてこの話は速攻暗礁に乗り上げます(笑) 「愛想がいいってなんや」 うん、ちょっと分かりにくいですね。「飛行機ってなんや」とかなら簡単なんだけど(笑) 前回の愛嬌と似ている。ちょい掴みどころが無い言葉。

なんとなくイメージでは感じはいいけど裏がありそうみたいな?! 何か得をしたいが為にゴマすった的?! 多分「愛想わらい」とか「愛想よくしろ」とかのひねった使用から出来たイメージでしょう。語源的には多分違うな。

で、そうなるとアレだ!(笑) 「ググってみましょう」 いいですねインターネット。ホンの20年前はなかなか出来なかった手なんですけどね。

Weblio国語辞典:
人が好感をもてる態度や表情をしているさまなどを意味する表現。

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◆「愛想がいい」とは悪い意味? 当てはまる人の特徴や心理、近づく方法も解説
・いつでも笑顔
・人と関わるのが好き
・他人に気配りができる
ーー
・笑顔を心がけている
・自分から明るく話しかけている
・聞き上手
・ポジティブに考えている

なるほど。どうも他人から好感を持たれる言動って感じかな?! あまりダーティな意味はなく、なんとなく私が良く書く”対人力”とか似ているような気がする。

■人類は”愛想をよくしない”傾向

でここからは私の個人的見解。今まで知った事を組み合わせて考察してみます。直接的なバックグラウンド・エビデンスは無いのであしからず。

そしてまず思うこと。おそらく上記のような愛想がいい言動、人間のゲノムとしては優性遺伝していないでしょう。多数派の人々は愛想を良くする事に、心の奥底からの説明不能な違和感が湧き上がると思う。特に良く知らない人物にやる事に対しては。

なぜならAgain私の得意な話ですね。人間の遺伝子は10万年前から進化という意味では殆ど変わっていないというトコロです。それは体の構造しかり、メンタルな傾向もしかりです。

で、10万年前の生活で最も有利になるべく人間の遺伝子が最適化されているとして、愛想のいい人というのはどんな状況に置かれる事になったか。

その頃人間は30~MAX100人くらいの集団で狩猟&移動生活をしていました。集団内に居ないとすぐに他の動物に捕食されてしまいます。よって集団内では人間関係を上手く過ごせる人が優位でしょう。愛想も良くするほうがいい?!

でも移動生活をしている関係上、他の集団(部族)と出会う事もあります。物々交換や新しい血を入れるために積極的に交流をしたかも?! うーーんどだろ。私はどちらかというと対立の方が多かったと思う。ある程度の近親交配(結婚)は、人間は耐えられますからね。

となるとです。おそらくあまり良く知らない人に愛想を良くする人は、危険だった可能性がある。「敵の可能性/感染症の危険性もある。だから殺しておこう」的判断もされやすいと思った。

つまり私が言いたい事。人間は進化の淘汰から、遺伝子として「愛想が悪い」人の方が多いのでは。特に良く知らない人に対しては愛想を良くする事に違和感を感じる、積極的にやろうとはしない傾向が強いのではと思うのです。

■日本人は”愛想”インセンティブが薄い

そして今度は日本人に限定します。歴史的な背景からも「愛想がいい」はあまり良い事として考えられていないかも知れません。

なぜならおそらく鎌倉時代くらいから?! 日本は長らく流動性の低い社会構造になりました。守護・地頭がローカル王様のようになり徴税権を独占する。その他の利権もすべて血族子孫に移譲される。

決定的だったのは江戸時代でしょうね。超・低流動の時代がめっちゃ長く続いちゃった。庶民の中で「頑張って成り上がろう」が殆ど無理ゲー。ちょっと上手く行っても権力者から潰される&略奪される時代。出る杭は打たれる典型ですね。

そんな中で「愛想がいい」ってどういう事?! 比較的地位の安定した権力者に媚を売って、便を取り計らうだけのスキルになったのです。庶民に幾ら好かれても無駄。大儲けとか将来の安定とかには、あまり繋げられません。

まさに悪代官と越後屋の関係ですね(笑) それ以外で愛想がいいなんて「何か目的!?」「打算!?」

もちろん周囲から人気は得られたかも?! でもじゃぁ立候補して行政に入り込むなんて出来ない。やってもあまり得じゃない。意味がない。そんな風に考える傾向が定着してしまったのではないでしょうか。

■日本人は”愛想”に違和感あり

纏めましょう。現代の日本人にとって愛想がいいのは、遺伝子と歴史から受け継がれた傾向から「違和感」があり、積極的にやる事に価値が感じられない。そんなモノになっていると思われます。

もちろん現代は江戸時代からは大分たった。でも未だに人々の考え方の癖には影響を及ぼしてもいる。まして本能から「そんな事するのなんか嫌だな」な感情が湧き上がる。

今でも積極的にやる人はなかなか居ないかな。そんな事になっていると思います。

ps:次回は「それでも愛想は良くしたほうがいい」

でも私は思います。特にサルサをやる場合は、敢えてその違和感に抗ってでも「愛想をよくする」方がいいでしょう。

結論だけ先に書くと「それがソーシャル・サルサの存在意義だから」 次回もぜひ読んでね!

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